あの日は一生忘れない。
その瞬間は、会社で仕事中だった。
もともと揺れやすいビルで、「あ、また揺れてる」と会社の人と笑っていたのが
「今日はちょっと大きいね」
「お、お、これはちょっと危なくない?」
となっていき、キャスター付きの椅子は大きく揺れ、座ることもできなくなった。
地べたに座ってもまだ揺れは収まらず、机の上からパソコンが落ちるのをただ見ることしかできなかった。
やがて揺れがおさまり、女性スタッフのいる部屋へ行ってみると、社長の姿見えない。
背後にあった本棚が倒れ、中に入れていた何百冊もの本に生き埋めになっていたのだ。
本棚自身は机に引っかかっていたので、幸いにも怪我はなかった。
ほかの部屋もロッカーや棚がことごとく倒れ、しかも棚の上にものを載せまくっていたせいでそれらも床に散乱し、足の踏み場がない状態だった。
全員に、とりあえず財布だけ持って外へ出るよう指示した。
その僕自身は、なぜか社長から渡されたノーパソを持って外へ。
当然エレベーターは停止していて、非常階段を使った。
ビルの壁面が崩れ、こぶし大のコンクリ片が階段に落ちていた。
揺れている最中に階段を下りるのは危険なんだと改めて実感した。
別の階の人も降りてきた。上の階の人は、女性スタッフがパニックを起こしており、両脇を抱えられながらようやって降りてきていた。
外へ出ると、街は意外と落ち着いていた。やはり会社のあったビルが揺れやすかったのだろう。
ほかの会社の人と話したが、誰も正確な情報を知らなかった。
そうこうしているうちに余震が来て、思わず道路上に座り込んだ。
やがて、近くの車のラジオから、震源地が福島であること、津波も来ているらしいことを知った。あれほどの被害になっているとは当然知らなかったのだが……。
ひとまず避難の基本として、近くの小学校へ向かうことにした。
途中にコンビニがあったので、会社の人には先行してもらい、僕はコンビニで非常食の買い出しと情報収集をすることにした。
コンビニは意外なほどいつも通りだった。
小学校では、今から生徒を帰宅させるので受け入れはできないと言われた。
もしかしたら会社の入ったビルだけが特別だったのかもしれない。そう思い始めていた。
そうなると、仕切り直したほうが早い。その日は全員早退にし、翌日片付けをしようとスタッフに告げた。
僕はと言えば、その前後に電車が止まっているとTwitterで知った。
思えばこのときは何よりもTwitterが重宝した。頻繁に使うようになったのは、間違いなくこの日がきっかけだ。
会社と家は15kmほどで、歩いて帰ることも可能だったのだが、女性陣が会社近くの社長宅で詰めるという話だったので、男手があったほうがよかろうと社長宅へ行くことにした。
そこで初めて映像を見た。
衝撃だった。
あの速報を知らせる音楽が何度も流れ、その度にびくついた。
その一方で、女性陣の取引先から「今日の納品は何時くらいになるか」と連絡が入り、会社の状況を説明するのに苦心した。
自分たちがいまどんな状況にいるのか、よくわからなくなっていた。
社会全体の流れを前にしたら、会社レベルで動けなくなっていても関係ないんだな、と思った。
やがて、激動の一日が終わろうとしていた。
「明日になればすべて元通りになる」とは思わなかった。
明日になれば情報も整理され、自分たちの進むべき方向が少しはわかるだろう、その程度だった。
そして、自分たちが遥かに幸せなほうだったことを思い知る。
あれから2年。
被災されたかたがたが、その心の傷を少しでも癒されますように。